『大工小屋へ運搬』
倉庫に保管されていた古材を大工小屋へ搬入します。
プレカットが主流となった昨今、
こうした工事に対応できる加工場をもつ工務店さんは少なくなりました。
古材の山をほどき広げることで、
一本一本を確認していきます。
『倉庫に保管された古材の山』
お客さんと初めてお会いした日、
案内された倉庫で出会った古材の山に、シビレました。
一見して、上質な住宅を解体した古材だと分かるモノでした。
これから向う建物に相応しい材料だと感じられました。
「これを活かす図面を書く!!」
日を改めて調査へ伺い、
目視できる範囲で木の捻れや加工跡に配慮しながら、
使用箇所と部材リストを作成します。
時間を忘れてワクワクする時間でした。
『挑戦』
特殊な工事に着手します。
私が解説を務めた文化財建物の特別公開に参加された方から、
「このような縁側をつくりたい」とご相談をいただきました。
私は、明治末期頃、当地で複数の大工集団が挑戦したと思えるこの特殊な形の縁側に惚れ込んでいます。
いつか、この特殊な縁側に挑んでみたいと思い続けていました。
近隣に現存する明治末期頃の3件を再度調査させて頂き、
条件と擦り合わせながら設計図面を書いていきます。
気合が入ります。
『梁組み復元』
素屋根の中では、一旦取り外した梁組みが元通りに組み終わりました。
木は生きているため、約130年の間に現れた癖による曲がりもありました。
一箇所一箇所、影響を見極めながら組み直しました。
大工さんの安堵の表情が印象的でした。
『沈下・傾き補正』
建物の沈下を補正しています。
着工前の調査では、不同沈下は建物全体にわたり、最大74mmの沈下を確認しました。
これらを油圧ジャッキで持ち上げ、慎重に補正していきます。
あわせて、傾きも補正していきます。
カマセの木にはアスナロを用いました。
シロアリに強く、湿気にも強い木です。
難しい仕事が続きます。
『白蟻による被害』
白蟻による被害がありました。
隣接していた建物との接合部で、過去に雨が漏れていた事が原因だと想像します。
一帯が腐っていましたが、材種により被害の程度が異なっていたことが印象的でした。
アスナロの柱は、被害が全くありませんでした。
地松の胴差(写真左奥の横材)は、赤身の材では被害は僅かでした。
地松の胴差(写真中央の横材)は、白太が大きい若い材だったためか大きな被害でした。
これら腐った部分を切除し、伝統的な継ぎ手を用いて、健全化していきます。
『一級建築士 設計製図試験』
一級建築士の設計製図(二次)試験が終わりました。
受けられた同志、お疲れ様でした。
6時間半の長丁場でしたが、
飲み物に手を伸ばす余裕すらありませんでした。
『間に合え』『受かるぞ』と言い聞かせながら、必死に手と頭を動かしました。
アドレナリンが出まくっていたのでしょう。
なんとか図面を完成でき、採点の土俵にはのれたことにホッとしています。
しばらく、思い返しては不安になる日々を過ごします。
お疲れ様でした。
合格祈願!!
『調査 番付』
木が組み合わさっていた箇所を外すと、
写真のような文字が見られる事があります。
これは、建物を組む際に、
どの木を、どの位置でどの向きに組むかを記した文字で
番付といいます。
「柱五番」と書かれています。
当時このあたりで一般的に使用されていた
「回り番付」と「組合せ番付」が併用されていました。
『調査 和釘併用』
木材の一部で和釘(角釘)の使用が確認できました。
和釘(角釘)と洋釘(丸釘)の併用時期だったのだと想像します。
建築年の確定には至りませんが、貴重な情報が得られました。
『調査 釘の種類』
解体時には色々な発見をすることができます。
主におこなう調査が、
「釘の種類」「製材加工跡」「番付」です。
これらの調査は、、、趣味です笑
この建物は明治中期頃と推測できますが、建築年は不明です。
使用されている釘の種類と使用箇所を記録します。
垂木・屋根板・床板・外壁板の全てが洋釘留めでした。
『修理開始』
解体と素屋根工事が終わり、
いよいよ修理が始まります。
まず、建物の傾きと沈下を補正していきます。
併せて、腐朽している部分を健全化していきます。
『素屋根』
一旦、建物を仮の屋根で囲います。
この素屋根によって、
1階部分を濡らさず、
天候に左右されず作業が出来るようになります。
『現れた梁組み』
内装材を全て解体した状態です。
この景色を眺め、ホッとしました。
一旦は再利用を諦めたこれらの梁を、
やっぱりゴミにしたくない。と再利用するよう方針転換した経緯があります。
この頃からお施主さん(実家のため、父)の表情の変化が気になり始めました。
先祖が建てた建物を縮小する事への「心苦しい気持ち」、
工事への後悔だと想像できました。
私も、この気持ちを他の工事現場で何度か経験しました。
もちろん今回の工事でも抱きました。
これらがあるため、
建物に敬意を払い、与えられた条件の中で最善を尽くしたいと思っています。
お施主さん(父)には
「後ろ向きな縮小ではなく、次へ繋ぐための凝縮」
「先祖も怒らんよ」と、話したように記憶しています。
これらが産業廃棄物として処分されていたかと思うと、、、
「耐えられんかっただろうな」と、ふと言葉が漏れました。
『解体状況』
軸組(柱・梁)と屋根板を残して解体が進んでいます。
解体工事は「宮坂商店」さんにお世話になりました。
平屋へ減築するため、
1階部分はそのまま残し、2階部分を解体します。
この状態から以下のように進めます。
①屋根を剥がす
②梁をクレーンで1本1本外す
③2階の柱を切る
丁寧な仕事に感謝します。
『四方鎌継ぎを分解』
分解前に、子供達に問題をだしました。
「上からも横からも入らないこの木は、どうやって組んであるでしょう?」
「潰してからいれた」
「別々の木をボンドで付けた」
「斜めにいれた」
「わからん」
と、思い思いに考えを聞かせてくれました。
この継ぎ手、斜めに木を滑り込ませて組んであります。
いったいどんな大工さんが?
隠れた箇所に名前が書かれていないか期待しましたが、
名前は残しておられませんでした。
約15年ほど前、私が初めてこの柱を見た時、
「我が家に、こんな複雑な継ぎ手が使われていることを誇らしく思いました」
感謝しています。
『四方鎌継ぎ』
解体する建物(馬屋)には難解な柱が存在します。
それがこの柱です。
部屋中央で梁を受けるこの柱は、上部で2本の柱が継いであります。
この継ぎ手、「四方鎌継ぎ」と呼ばれる特殊な継ぎ手です。
それなりに多くの建物を見ていますが、
建物への使用で確認しているのは、ここだけです。
「古材で作ったこの建物になぜこんな複雑な継ぎ手が?」
建物は解体しますが、
この柱だけは取り外し、解読します。
『諦められない』
一部天井を剥がし、この景色を見た時、
「やっぱりゴミにしたくない」と思ってしまいました。
同等の強度に耐えられる梁を、新しい材で購入すれば、
1本あたり5万円程度します。
この建物には、11本架け直す必要があります。
さらに処分費も加算されます。
この費用を職人さんへ還元すると思えば、
諦めるほどの増額にはならないと考え直しました。
職人さんへこの想いを伝えたところ、
「小畑くんっぽいね。」と言ってくださりました。
再度、梁として使います。
ゴミにはしません。
『天井裏に隠れた梁組み』
天井裏には立派な梁(横材)が隠れています。
平屋へ減築するにあたり、2階より上部は一旦全て解体することになります。
つまり、この立派な梁も解体の対象となります。
調査時、ホコリ臭い天井裏でこの立派な梁を眼の前に、
再利用する方法を考えましたが、
手間・時間を想像すると、
とても提案できないだろう、、、と諦め、
新しい木材で梁を架け直すよう、図面を書き進めました。
『つなぐ工事』
この建物、実は実家の門長屋です。
幼少期から眺めてきた建物であり、
建築を学びだしてからは調査対象として幾度となく愛でた建物です。
経年の傾きや沈下が著しく、
毎年のように雪で瓦がズレていました。
その都度、父によって適切に管理されてきましたが、
限界が近付いているようにも感じていました。
解体も選択肢にありましたが、残す方法を探すなかで
『平屋へ減築』という方針が決定しました。
『つなぐ工事』
特殊な工事に着手します。
明治時代中期に建てられたと想像する、
2階建ての門長屋を、
平屋へ減築します。
併せて、隣接する馬屋を解体します。
敷地内には複数の建物があります。
長期計画に基づき工事範囲と内容を決定することで、
建物を活用していきます。
『色決め』
脱衣室に塗る塗料の色をご提案しています。
近い部屋の壁クロスと比較しながら、
6色ご提案し、選んでいただきました。
『祖母が使っていた板』
洗面カウンターの板を加工しています。
実はこの板、お施主さんのお婆さんが裁縫台として使っておられた板です。
木目、肌さわり、匂いから判断すると、おそらく銀杏の木です。
2年前にお施主さんのお父さんとお会いした際、
この板を頂きました。
お婆さんが嫁入りの時に持参された板だとお聞きしました。
この度の工事で、この板と欅の一枚板をご提案したところ、
こちらのお婆さんの板を選ばれました。
薄っすらと記憶にあるように仰っておられました。
2年前、このような御縁を頂くとは思ってもいませんでしたが、
繋げられたことを嬉しく思います。
『板材の乾燥』
外壁に張る杉板を乾かしています。
乾燥材ではあるのですが、
もう少し乾燥させたかったので、
張る前に広げて、空気に慣らしています。
これをすることで、工事後の狂いが少なくなります。
『現場あるある』
テレビ周りのコンセント位置について、
お施主さん、大工さん、電気工事屋さんと打合せました。
写真は、その時の指示書き(落書きのようですが、、、)です。
当時は理解しながら書いていましたが、
時間が経ってから見ると???が頭に浮かび、
笑ってしまいました。
工事は、打合せ通り無事におこなわれています笑
『気密測定』
気密測定をおこないました。
結果は
『C値:0.6cm2/m2』
改修工事ということもありドキドキしましたが、
期待よりも良い数値がでました。
補足
床の断熱は、床断熱を採用しました。
基礎断熱は採用しません。
一般に、改修工事、尚且つ床断熱の場合にC値1.0を下回ることは難しいと言われています。
しかし、特殊な建築材料を使用した訳では有りません。
勘どころを捉えた、丁寧な施工の結果だと感謝しています。
『断熱改修』
鳥取県が独自に取り組んでいる「Re-NEST」に該当する工事で、
補助金を受けています。
断熱性能を表すUa値は0.41(W/㎡k)です。
基準値0.48及び、ZEH0.6を下回る(高性能)値です。
この値は冷暖房費を60%削減できると言われています。
「耐震補強工事」と「断熱改修」の両方を叶えた改修工事です。
『耐震補強 大工工事』
補強設計を基に補強工事を行います。
既存の筋交いに金物を取付け、
不足している部分に補強壁を追加します。
併せて、
広い空間を確保するため、柱を抜き補強の梁を挿入していきます。
『耐震補強 杭圧入』
擁壁に近い箇所が約35mm沈下していました。
この箇所を除いて建物全体では沈下は僅かな値だったため、
費用対効果を考慮して、
擁壁付近の基礎下だけに杭を圧入する方法をご提案し、工事しました。
『補強設計 計算』
お客さんの要望と補強方法を擦り合わせ、計算していきます。
結果
【上部構造評点のうち最小の値 2.26(倒壊しない)】
※1.5以上:倒壊しない
1.0~1.5未満:一応倒壊しない
0.7~1.0未満:倒壊する可能性がある
0.7未満:倒壊する可能性が高い
「診断時:0.38」だった値を「補強:2.26」とすることが出来ました。
これをお客さんへご説明し、
次の「補強工事」へ進みます。
『補強設計』
補強設計と並行して、
改修後の間取りの打合せを重ねます。
現在の間取りは「6畳の和室3部屋と台所」と、細かく区切られています。
一方、お客さんの要望は、
間仕切り壁の少ないゆったりとした空間です。
調査で確認した梁の架かり方と照らし合わせ、
効果的な補強方法を考え、
お客さんの要望と擦り合わせていきます。
『耐震診断 計算』
調査で分かった内容を基にして、計算していきます。
結果
【上部構造評点のうち最小の値 0.38(倒壊する可能性が高い)】
※1.5以上:倒壊しない
1.0~1.5未満:一応倒壊しない
0.7~1.0未満:倒壊する可能性がある
0.7未満:倒壊する可能性が高い
これをお客さんへご説明し、
次の「補強設計」へ進みます。
『耐震診断 鉄筋調査』
昭和62年には、建築基準法において基礎へ鉄筋をいれることが義務化されています。
念のため、探査機をもちいて調査します。
結果、約200mm間隔で鉄筋が組まれていることが分かりました。
『耐震診断』
住宅の耐震診断に着手しました。
昭和62年の建物です。
平面を実測し、平面図を作成します。
併せて、床下や天井裏に潜り、基礎の状況・筋交いの位置・小屋裏の状況も調べます。
『酒蔵を上げる』
油圧ジャッキを使って、建物を浮かせます。
力の流れを想像し、適切な箇所にジャッキを効かせていきます。
腐朽が進んでいるため、
1箇所に頼って上げようとすると木材が潰れます。
さらには、仕口(木材の接合部)が壊れます。
このようなことが起こらないよう、協議・判断を繰り返します。
緊張が続きます。
『業者打合せ』
工事に先立ち、各業者さんと打合せを重ねます。
この度の文化財修理工事では、長大な建物をジャッキアップして浮かせます。
建物には、大きな力が働くことになります。
各業者さんの施工手順と要望を聞き、
想定外がおこらないよう調整を行います。
また、文化財的価値の毀損に繋がらないことも重要視します。
とても重要な作業です。
『腐朽箇所の確認』
柱などを覆い隠していたベニヤなどを剥がし、
事前調査で確認していた腐朽箇所を改めて確認します。
隣接する6本の柱が全て折れています。
怖くなる景色です。
これらを修理するため、ジャッキで浮かせて、柱を継いでいきます。
高度な技術を必要とします。
『県指定文化財 酒蔵修理着手』
県指定文化財の修理工事が始まりました。
築後140年程度の長大な土蔵です。
雨漏れによる腐れ、シロアリ被害、沈下、傾き、改造による不具合など、
問題箇所が複数ある、難しい仕事となりますが、
地元職人さんの手で修理を行います。
『齋尾家住宅 デジタルパンフレット完成』
北栄町国坂にある
国登録有形文化財 齋尾家住宅のデジタルパンフレットが完成しました。
建てられた当時が上質だったことに加え、
歴代家主の管理の丁寧さが、
随所で感じられる建物です。
18年間の調査で分かった事を、写真と文字で解説しています。
是非、ご覧下さい。
デジタルパンフレットはこちら
『外壁塗装工事』
外壁の塗装工事が始まりました。
塗装工事に併せて、
①コーキング(防水)の打ち替え
②被り厚さ不良による鉄筋爆裂の処理
③古い塗装の不良箇所の撤去・下地処理
を行います。
穏やかな気候のうちに終えたいと思います。
『地盤改良 不要』
地盤調査をおこなった土地の上には、どのような建物が建つのか?
平屋なのか、二階建てなのか?
屋根は重たい瓦なのか、軽い金属屋根なのか?
建物の荷重を一つ一つ計算し、
地面に伝わる力と地面が耐えられる力の両方を計算し、
比較します。
結果、
「改良不要」「べた基礎とする」という結果が導かれました。
これをお施主さんに提示し、方法を選んでいただきます。
『地盤改良必要?』
先日の地盤調査の結果が届きました。
結果は、
「地盤改良」が必要と判定し、改良工事を提案するものでした。
「では、何十万円の工事費を加算して、地盤改良しましょう。」
とは、言いません。
お施主さんへ、調査結果の報告をしますが、
この報告書を基に、計算します。
この報告書では、
この地面の上に、どのような建物が建つのかが考慮されていません。
『地盤調査』
新築住宅の設計と並行して地盤調査を行います。
スクリューウェイト貫入試験(旧スウェーデン式サウンディング試験)という方法で調査を行います。
地面へ突き刺したスクリューへ一定の荷重を載せ、
25cm沈下するのに、何回転を要するか?
これを基に、地面が建物の荷重に耐えられるかどうか?を検討していきます。
地盤調査報告書が届くのを待ちます。
『海鼠壁 分銅繋ぎの左官か?』
ふとしたことから古い調査資料を読み返しました。
読み返したのは、昭和26年の新聞記事。
それには、昭和26年当時、当地で活躍していた
左官職人「徳島喜蔵」について書かれています。
この記事の中に、
先日の解体工事で見つけた「海鼠壁 分銅繋ぎ」の家を手掛けたことが記されていました。
活躍時期と建築推定時期は重なります。
確信は得られませんが、
左官職人「徳島喜蔵」は「海鼠壁 分銅繋ぎ」を手掛けた可能性の高い方です。
「徳島喜蔵」という方は、別のお宅の資料でも確認できており、
新聞にも取り上げられるほどの、
名の通った方だと想像できます。
『利休梅の苗木』
昨年いただいた利休梅が初めて花を咲かせました。
雪で折れてしまった枝もありましたが、
澄んだ白い花を咲かせてくれました。
『樹齢約140年の桜』
今年も綺麗な花を咲かせてくれました。
空の青さも重なり、
いっそう綺麗に見られました。
『干菓子』
お客さんから遠方のお菓子をお土産にいただきました。
お抹茶の際にもいただく、干菓子です。
彩りの美しさと季節の感じられる形に、
つい写真におさめました。
『床下補強』
床がダワつくと相談をいただき、補強をおこないました。
新築から40年程度経っているお宅で、
床には一般的な建材の床材(ベニヤを貼り重ね、表面に薄い化粧材を貼った15mm厚のもの)が張られていました。
よく歩く場所では、ベニヤを貼り合わせている接着剤が剥離しており、
それが原因でダワついていました。
早く気が付かれたため、
表面の化粧材にまで影響が出ていませんでした。
大工さんに床下へ潜っていただき、
床下から補強をおこないました。
『補助事業について思うこと』
『補助事業について思うこと』
建築工事には、多くの補助事業があります。
「打吹玉川伝統的建造物群保存地区」での補助事業は、
国・鳥取県・倉吉市が補助をおこなう事業です。
この地区の修理で使用する材料は、基本的には地域で手に入れられる材です。
また、職人さんもこの地域に住まわれる方です。(少なくなっていますが、、、)
つまり、投入される補助金を、ほぼ地域へ還元することが出来ます。
他の補助事業でもこの点を忘れないように心がけています。
このような補助制度を活用し、
確実な設計をおこなうことで、
職人さんと共に成長していきたいと考える昨今です。
『修理事業報告会』
倉吉市にある「打吹玉川伝統的建造物群保存地区」で、
補助事業の修理報告会が行われました。
今年度は解説者に指名され、
ユウ建築工房さんと行った修理事業の報告を行いました。
工事前の状況から始まり、
調査・設計時に心がけたこと、
工事中の問題対応及び工法の選定、
制度に対する諸々の改善要求(愚痴?)など話しをさせていただきました。
多くの参加者が有り、
活発な質疑も行われました。
『海鼠壁 分銅繋ぎ』
現在解体中の建物で珍しい仕事を見付けました。
ベニヤ壁の下(後の改修で張られていた)から、姿を現しました。
「分銅繋ぎ」という模様です。
黒漆喰を全面に塗った後、
目地(白漆喰)部分を削り取り、
基準墨を朱墨で、目地の線を鉛筆のようなもので記し、
蒲鉾形の目地(白漆喰)を盛り上げて塗っています。
建築年・施工者ともに分かりませんが、
この地域の技術を一つ記録できました。
詳しい方にお聞きすると、
「全国的にも珍しい仕事だ」とのこと。
切り取って保管することになりました。
『木木舞(きごまい)』
土壁を塗る場合、その下地は「竹木舞」が一般的ですが、
新築のこの現場では「木木舞」を採用しました。
「竹木舞」は施工できる業者さんが少なくなり、
職人さんの塩梅(あんばい)で良し悪しに差が見られます。
一方、「木木舞」は、木材とその間隔を守れば管理が可能な工法と考えます。
この現場の大工さんも初めてだと仰っしゃられていました。
隙間から漏れる日差しが柔らかく、
土壁を塗るのが惜しい空間でした。
『打吹玉川伝建地区での工事 完了』
倉吉市にある、
「打吹玉川伝統的建造物群保存地区」での令和5年度工事が完了しました。
今年度は4事業をさせていただいています。
その内の2事業は同じ現場での「修理事業」と「修景事業」です。
江戸末期の建物だと推測します。
補助率が非常に高く、
制約が多くある地区ですが、
その中で「どのようなご提案ができるか?」
いつも葛藤があります。
そして、市担当課と意見がぶつかります。
地区を大きな博物館とするべく、時間を止めることは、
地区の空き家を増やし、活力を失うことに繋がってしまうと考えます。
市の完成検査後、
「ここ数年で最も良い工事」とお墨付きをいただきました。
より魅力的な空間へ昇華させたいと考えます。
『再会建物調査 土壁の中』
床の間の、上部の壁を一部破壊しました。
落し掛けの上の小壁のことです。
写真右に見えるのが床柱(ビンロウ)です。
土塗りの下地となる、竹と縄、それを支えている貫も見えます。
そして、期待した通り、ボルトが隠れていました。
このボルトは長さ約2mあり、
両端は柱を貫通し、ナットと座金で締め付けられています。
開き止めを目的とした補強材だと考えます。
いつから使われ始めたか分かっていません。
確認できている最も古い使用例は明治41年です。
ご存じの方があれば教えて下さい。
『再会建物の調査 小屋裏』
学術調査をおこなう際に、必ず探すのが「棟札」です。
棟札は、小屋裏の最も高い箇所にあることが多く、
許可がいただければ、探しに潜ります。
今回も、潜りましたが、
棟札は見付けられませんでした。
興味深かったのが、時代の違いです。
梁や束などの木材の加工は「手斧」でした。
大正期以前の仕事です。
天井を釣る装置は「番線」が使われていました。
昭和初期以降でしか確認できていませんでした。
「手斧」「番線」という時代が異なると考えていた2つの要素を同時に見付けました。
工法の過渡期だったのだと思いますが、
知らないことが沢山あるな、、、と、改めて気に留めました。
『再会建物の調査』
お座敷に入り、目に入ったのは「床柱」でした。
薄暗いなかでも銘木だと分かりました。
ですが、言われていた「鉄刀木」ではなく、「ビンロウ」でした。
この2つは、よく混同されています。
当地では圧倒的に「ビンロウ」の使用が多く、「鉄刀木」は1件でしか見たことがありません。
床框・落し掛け・狆潜りなど至るところで銘木が多様され、
明治末期以降の流行が見られます。
細部の納まりは、格式を理解した使い分けがされています。
目の肥えた施主の要望に応えられる、慣れた大工の作だと感じられました。
最も驚いたのは、書院の欄間が我が家と同じ作者だったことです。
近所では確認していましたが、、、
流通経路など不思議が増えました。
解体前に、一部破壊しながらの調査が許されたので、
細部の仕事を確認し、記録します。
『建物との再会』
友人から「見て欲しい建物がある」と連絡がありました。
聞くと、
「古い建物を解体する前に、どういった建物かを知りたい。」
「床柱に鉄刀木という木が使われているらしい。」
とのことでした。
後日、案内を頼りに訪ねると、驚きました。
今から14年前の春、訪ねた場所でした。
当時探し回っていた、
「木連格子」と「側柱」という珍しい仕事の両方を備えた建物です。
空き家のため調査が叶いませんでした。
最後に呼んでもらえたのだと、感謝します。
『雪かき』
積雪に見舞われ、早朝から雪かきに追われました。
気がかりなお宅もあり、
頼まれてもいないのに、見回りました。
除雪機が大活躍。
感謝の言葉が嬉しい日でした。
『初釜 正客』
初釜にお招きいただきました。
ご一緒させていただいたのは、遠方からの先生方でした。
急遽、正客をご指名され、丁重にお断りしましたが、
これも経験、、、と自分に言い聞かせて、
僭越ながら、、、させていただきました。
連客の時とは異なる緊張感があり、
粗相もありましたが、
皆さんに教えていただきながら、無事に終えることができました。
貴重な経験をさせていただきました。
『寒さの原因を可視化する』
これは、サーモグラフィー カメラで撮影した熱画像です。
こういった機器を使って調査を行うと、寒さの原因が見えてきます。
最高温度(54.6℃)は、薪ストーブの横に置かれた鉄製のバケツ
最低温度(8.8℃)は、外気に面したアルミ樹脂複合サッシの枠
この住宅には多くの素材が使われており、数値の対比ができました。
アルミ樹脂複合サッシ ↔ アルミ樹脂複合サッシ+障子
土壁(土塗り60mm+漆喰) ↔ 木下地壁(PB+漆喰)
板戸 ↔ ふすま戸
「熱」というと熱いものと考えがちですが、冷たいという「熱」を想像する必要があります。
伝導・対流・輻射に分けて対策を考えていきます。
撮影した住宅の条件は以下です。
築101年の木造住宅
薪ストーブ設置
断熱:床壁→なし/天井→ロックウール100t充填
『改修後の断熱性能を数値化』
令和3年に改修した住宅の光熱費を比較しました。
この住宅は、
鳥取県が独自に取り組む「Re NE-ST」に先立っておこなった改修工事です。
「耐震基準」と「高い断熱性能」を叶えた設計です。
詳細は、施工事例【昭和51年の家】をご覧下さい。
電気使用量は、以下のように変化しました。
夏場で約75%へ削減
冬場で約65%へ削減
春秋で約55%へ削減
※改修前「電気+ガス」 → 改修後「オール電化」
改修前は、電気とガスの併用でした。
改修後は電気の使用割合が上がったにも関わらず、
電気使用量のみを比較した結果、上記のように減少しました。
当然ながら、
住まい方や家族構成によっても数値は変化します。
期待した数値が確認できました。
同時に、改善点も見えましたので、満足せず改善していきます。
『齋尾家 文化財限定公開解説』
北栄町にある「齋尾家住宅」の限定公開の解説をおこないました。
平成29年に始まった公開も、今回で10回目を迎えました。
リピーターの方も複数おられますが、
延べ150名程度の方にご参加いただいたことになります。
この度、リーフレットも出来上がりました。
当日は秋晴れ。
管理の行き届いた家には、いつも頭が下がります。
内容をより深めていきたい、、、と常々思っています。
まだまだ知りたいこと、お伝えしたいことが多くあります。
次回は3月予定です。
是非、いらして下さい。
『次へ繋ぐ 石垣完成』
解体した土蔵の石を、石垣として積み直しました。
端部の納まりに苦心しましたが、
綺麗に納めてもらえました。
「出来ない。」と言われてしまえば、安易にコンクリートの擁壁となっていました。
「やろう。」と応えてくださった吉村さん、ありがとうございます。
感謝しています。
お客さんからも労いの言葉をいただきました。
最も良い選択となったと感じています。
『庭の掃除』
秋晴れの今日、庭の掃除をしました。
とは言っても、自宅ではなく、お客さん宅のお庭です。
高齢のご夫婦がお住まいですが、体調を崩され、
管理が難しいという事で、相談を受けました。
長い付き合いという事と、
御当主の管理を学びたいということ、
そしてなにより、力になりたいという思いから、
快諾しました。
自宅よりもやる気になっている自分に気が付き、
笑ってしまいましたが、
綺麗になり満足です。
『階段 完成』
総欅の階段が完成しました。
ゴミとなりかけていた材が、このように姿を変えました。
『階段 加工』
いよいよ、木取りした欅材を現場で組み立てる作業です。
八角柱と框の仕口を加工しています。
『薪ストーブのメンテナンス』
自宅の薪ストーブは、設置後6シーズンを経ました。
「ガスケットの痩せ」「所々の錆」が気になりだしたので、メンテナンスします。
古いガスケットは撤去します。
耐火セメントを用いて、新しいガスケットを貼っていきます。
錆は、ケレンして取り除きます。
ポリッシュを布で擦り込み、乾いたら完了です。
今年も活躍してもらい、暖かく過ごしたいです。
『恩師からの叱責』
投入堂で知られる三徳山三佛寺には、その他にも文化財建物が多く現存しています。
その内の「地蔵堂」には忘れられない思い出があります。
学生時代、他校の生徒と20名程度で投入堂へ向かう途中、
最後尾を歩く私は、呆れたような怒りの声を聞きました。
声は、生田昭夫先生(米子高専非常勤講師)からでした。
「ここを見たの?」「君たちはここを見ないといけないでしょ?」
長年、三佛寺を調べておられる先生からの叱責でした。
「ここ」とは、縁の出隅の板のこと。
自然の影響を受けやすい箇所です。
三角の板を2枚継ぐのではなく、四角い板が1枚で張られていました。
「400年以上もつ伝統的な建物には、こういう工夫があることを気が付かないと。」
と、教えて頂きました。
今でも心に留めています。
『大工棟梁 発見』
私には追いかけている大工が数名います。
これらの大工棟梁は、江戸末期~昭和初期に活躍した先人です。
どの建物に携わり、どのような仕事をしていたのか、
知りたくて、知りたく、夢中になります。
現在、近所で土蔵の解体が行われています。
歴史的背景や、建物の形状から、大工棟梁は「藤田清八」だと予想していました。
解体時、取り外された棟持梁の上端に墨書を見つけました。
解体しないと見えない箇所でした。
水洗いすると、
そこには「大工棟梁 藤田清八」
堂々と、ハッキリと書かれていました。
初めて確認できた墨書でした。
『端材の活用』
欅の端材が残りました。
これらは、虫食い・白太・木目の粗さなどの理由で弾かれたものです。
ですが、これらも全て活用します。
自宅の薪ストーブの燃料とするため、
短く切り、持ち帰ります。
私の手に渡るまでに「伐採、製材、保管」の手間が掛かっています。
その後、「設計、木取り、加工」の手間を掛けました。
多くの人の手間を経て、自分が最後を看取ります。
『木取り 加工』
大工さんの加工が終わり、
欅特有の木目が現れました。
腐ってゴミとなりそうだった木材が、生まれ変わってくれました。
次は、現場での組立作業です。
『木取り』
大工さんへ、欅も木をお届けしました。
この木材は廃業した業者さんの倉庫に放置され、
腐っていた木材の中から救出したものです。
片付けて欲しいと相談を受け、購入させていただきました。
これらと図面を照らし合わせ、大工さんに木取り(加工)をお願いします。
『限定公開 県指定文化財 高田酒造』
倉吉市にある「県指定保護文化財 高田酒造」の限定公開が行われました。
当日は、解説員を務めました。
米子高専の生徒にも協力してもらいました。
私の学生時代は、このような機会が大変貴重でした。
何かを感じてくれて、繋げられたらと、期待します。
嬉しい出会いもありました。
早速のリピーターもあり、雑談も楽しめました。
1時間の解説を6回行い、
あっという間の一日でした。
『土台の入れ替え方法』
これが設計図面です。
イメージを共有するため、立体に作図しました。
柱及び土台は水に強い栗です。
栗は癖が強く、伝統的な木組みで癖に対抗します。。
右の柱から
①金輪継ぎ+雇ホゾ込栓打ち
②長ほぞ込栓打ち
③雇ホゾ込栓打ち
直行する土台同士の仕口は
雇ホゾ+車知栓+割り楔打ち
を採用しました。
これを基に大工さんと協議し、方針を決定します。
「面白いことさせてくれるな~」と笑顔で応えてもらいました。
方針決定です。
『腐った土台の入れ替え』
柱の直下に入る「土台」という材を取り替えます。
約105年前の建物です。
屋根から降りる竪樋が詰まり、溢れた雨水が竪樋を伝って、柱と土台を濡らしていました。
その水を求めてシロアリが集まり、木材を食い荒らしていました。
右の柱と次の柱は、宙に浮いているような状態。
土台は右端から2m程度まで空洞となっており、
不安定な状態です。
これらを健全化します。
しかし、柱の両端にはホゾという突起があり、横から簡単には入れ替えられません。
上部の屋根や梁は壊さず作業します。
大工さんへ、難題をお願いします。
『収穫』
カボチャを無事に収穫しました。
雨が続き傷んでしまった箇所もありましたが、
獣に食べられることもなく、よく育ってくれました。
並んで植えたサツマイモを侵食してしまい、途中で間引く必要がありました。
初めての経験が出来ました。
次はいよいよ、サツマイモの収穫です。
『次へ繋ぐ 石垣加工』
土蔵の基礎石を石垣となるよう積み、細部を加工します。
普段は基礎工事屋さんですが、器用にこなして下さる業者さんです。
石と石の接合部や、端部は、
どうしても手を加えてやる必要があります。
「ここまでしてって言うでしょ?笑」
と、汗だくになりながら手を掛けて下さいました。
感謝しています。
私も短時間経験しましたが、加工跡がより一層愛おしくなりました。
過去から現在まで、
これらの石に、どれだけの人の手間がかかっているか?
活かせて良かったと嬉しくなりました。
『限定公開 県指定文化財 高田酒造』
倉吉市にある「県指定保護文化財 高田酒造」の第二回公開が決定しました。
当日は、解説員を務めます。
倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区にある代表的な建物です。
主屋は、天保14年(1843)に建てられ、三列型の大規模な町家です。
明治40年の皇太子殿下山陰行啓では、憲兵隊長の宿舎にもなりました。
日時:令和4年10月16日㈰
9時30分/10時30分/11時30分/13時30分/14時30分/15時30分(各10名)
公開範囲:主屋(指定文化財)・高田氏庭園(指定名勝)
※天候により茶室松風庵(指定文化財)
料金:1,000円
申込み:高田酒造(電話:0858-23-1511)
※受付開始は9月23日㈮
詳細は、下記資料をご覧ください。
この機会に、是非ご覧ください。
資料ダウンロードはこちら
『次へ繋ぐ 梁の製材』
土蔵の解体時に取り外した4本の地松の梁を製材しました。
事前に、梁へチョークで木取り方の印をつけます。
寸法と用途をお伝えし、製材機に向かいます。
帯鋸で梁を製材すると、
地松特有の匂いと、綺麗な木肌が見えました。
約150年前の古材に、新たな生命を吹き込む瞬間です。
「この判断で良かったのか?」と自問し続けていましたが、
自分を納得させるには十分な材が取れました。
次は、大工さんへ想いを伝え、
主屋の改修工事に組み込んでいきます。
『木製建具の可変性』
木製建具は動かすことの出来る間仕切り装置です。
LDKと繋がる和室を、使用用途によって襖で二部屋に仕切ります。
しかし通常、この4枚の襖は障子の裏の縁側に仕舞い込まれています。
これを可能とするため、敷居と鴨居の溝に特殊な加工を施しました。
尚且つ、可動式の枠も取り付けることで、
隙間なく、より違和感なく見えるように工夫しています。
『古い欄間と、新しい木製建具の融合』
建具中央の欄間(竹細工)は、改修前の玄関正面の壁に嵌め込まれていたものです。
来客のお出迎えに相応しいと、先々代が選ばれたものだと考えます。
この欄間を、新たな玄関の建具に嵌め込みました。
欄間の脇に入る特徴的な模様の板は、黒柿です。
この黒柿は、先代との打合せの際に「使いたかったけど、使えなかった」と言っておられた銘木です。
保管していた材の中から、提供しました。
新たな玄関に馴染むデザインとなりました。
先々代の想いが繋げたのでは、、、と自己満足です。
『木製建具のデザイン』
住宅の改修工事で、特徴的な木製建具を製作しました。
この建具のデザインは、
以前調査に訪ねた町家の上便所に使われていたデザインを、改良したものです。
その建具を製作したのは『田中虎次』。
昭和5年頃の作品です。
この度、この建具を担当したのは、田中建具『田中修二』会長です。
会長は現在70歳代で、田中虎次氏の孫にあたります。
世代を超えて、同じデザインに向き合って頂きました。
桟の見付け幅や面の大きさなど、細かく打合せを行い、
加工場にもお邪魔しました。
現代にも十分通用するデザインだと感じています。
『次へ繋ぐ 石』
土蔵の上屋の解体が終わると、
残るのは、基礎の礎石です。
これらも全て残しました。
石に残るノミ跡の表情が愛おしかったためです。
大変な重労働だったと想像出来ます。
今回、解体用重機進入の為にスロープを造りました。
その壁面に、土留として、この礎石を積み上げたいと考えます。
『次へ繋ぐ 梁』
土蔵の解体は順調に進み、
棟持ち梁という地松の梁を取り外しました。
解体屋さんの丁寧な仕事に感謝です。
今から約150年前に伐採し製材された材。
当時は勿論、人力です。
手斧やノミの加工跡からは、先人の丁寧な仕事が見て取れます。
この梁は、主屋の工事で再利用します
『お客さんの涙』
新築工事の刻み作業を、お客さんと見学しました。
「刻み」とは、大工さんが手道具で行う木材の加工です。
山積みの木材を、複数の大工さんが一斉に刻んでいます。
プレカット(機械加工)が主流ななか、珍しい光景です。
「この材が、居間の梁」「この加工用の墨は線を残して刻む」「古材の捻じれを考慮して新材と継いで」などと話している内に、
お客さんの涙を見ました。
「こんなに手を掛けてもらっている家に住めるなんて」
この言葉(気持ち)に救われます。
私の口を経由しましたが、大工さんへもお伝えしました。
感謝です。
『シロアリ駆除』
お客さん宅の縁側床下で蟻道を見つけました。
蟻道とは、土中からシロアリが上がるために作るシロアリの道です。
床下に潜り、建物全体を調査した結果、6本の蟻道にシロアリを確認しました。
早速、駆除します。
駆除には、(公社)日本しろあり対策協会認定薬剤と、噴霧器を使用します。
噴霧器は、石や木部の僅かな隙間に届くため重宝します。
薬剤は水性を使用しました。
後に、駆除業者の薬剤効果を阻害しない為です。
蟻道から徐々に範囲を広げて駆除していきます。
この度のシロアリは、蟻道から横へ1.5m、上へ0.5m進んだ松材を食害していました。
木材へ穴を開け注入、及び材の継ぎ目に噴霧する方法をとりました。
建物全体を駆除するかは、お客さんと相談し判断していきます。
『土蔵解体 着手』
初めて調査の許可をいただいた家の土蔵の解体が始まりました。
近隣への挨拶と御願いを丁寧に行い、当日を迎えます。
解体に先立ち、残置物の整理を行いました。
蔵荒らしの被害が複数回あり、中は酷い有様でした。
僅かですが、古文書は行政へ寄贈しました。
事故無く、無事に終えたいと思います。
『収穫』
4月に植えたジャガイモを無事に収穫しました。
近所の子にも声をかけて、収穫体験も計画しました。
「あったぁ!」や「でっけぇ!!」など、賑やかな声が響きました。
大小さまざまなジャガイモが計137個。
次はサツマイモに挑戦します。
『復元工事 組む』
加工を終え、保管木材と新規木材を繋ぎます。
右の黒い材が保管木材、左の材が新規木材です。
監理という立場で、大工さんとお話しをし、加工にも立ち会います。
木と向き合う大工さんを黙って見つめ、、、
尊い仕事だと感謝します。
『復元工事 刻み』
健全な箇所を見極め、保管木材と新規木材を繋ぎます。
この繋ぐ加工を「継手」といいます。
柱や梁の位置関係を整理し、継手位置と継手形状を決定します。
ここでは「腰掛け鎌継ぎ」という加工をしています。
保管木材の捩れ・反りを考慮して加工します。
『復元工事 加工』
保管していた木材を加工しています。
腐っている材を少しずつ切り進め、健全な箇所を探します。
※復元工事では、材の取り替えは最小限とします
『復元工事』
腐れの激しかった家を、一旦バラして保管しています。
木材全てに番付(各部材の位置を示す符丁)を施し、一つ一つ丁寧に外しました。
保管木材の状況を確認し、設計図面に反映していきます。
『土蔵解体』
写真右奥の土蔵を解体します。
16年前、初めて調査の許可をいただき、調査した家です。
強い思い入れのあるお宅です。
受け入れないといけない現実です。
気持ちを整理し、看取りたいと思います。
活かせるものを見極め、次へ繋ぎます。
『限定初公開 県指定文化財 高田酒造』
倉吉市にある「県指定保護文化財 高田酒造」の初公開が行われました。
当日は、解説員を務めました。
1時間の解説を5回行い、、、流石に疲れました。
ですが、充実した時間でした。
次回開催は10月の予定です。
その際は、ホームページ上でも開催のお知らせを行います。
是非、いらして下さい。
『漆器』
我が子の節句に、この漆器を使いました。
この漆器は、以前調査に伺った家の土蔵に仕舞われていたものです。
土蔵解体の前に、「良かったら貰って」と頂いたもの。
明治30年12月購入と箱書きがあります。
この翌年明治31年、婚礼をされていますので、
その為に購入された物だと想像します。
また、目出度い席で使いたいと思います。
『日本海新聞投稿「形をなくしても残るもの」』
投稿した文章が掲載されました。
『建築士会誌 掲載』
令和3年に竣工した住宅が掲載されました。
相談から竣工まで1年3ヶ月
短時間での業務となりました。
設計では、心が折れることもありました。
本を読み、京都へ調査に伺うこともしました。
職人さんの技術を遺憾なく発揮してもらえるよう、
「心を組むこと」を心掛けました。
『樹齢101年の霧島つつじ』
今年も真っ赤な花を咲かせました。
日光の下で見ると綺麗さが際立ちます。
大正10年の作庭時に植えられたものと思えるので、
今年で、樹齢101年です。
樹高2.9m、枝張り4.7m
枯れ枝も目立ってきたので、
花が落ちたら、負担とならない程度に手を加えてやろうと思います。
『限定初公開 県指定文化財 高田酒造』
倉吉市にある「県指定保護文化財 高田酒造」の初公開が決定しました。
当日は、解説員を務めます。
倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区にある代表的な建物です。
主屋は、天保14年(1843)に建てられ、三列型の大規模な町家です。
明治40年の皇太子殿下山陰行啓では、憲兵隊長の宿舎にもなりました。
日時:令和4年5月29日㈰
10時/11時/13時30分/14時30分/15時30分(各10名)
公開範囲:主屋(指定文化財)・高田氏庭園(指定名勝)
※天候により茶室松風庵(指定文化財)
拝観料:1,000円
申込み:高田酒造(電話:0858-23-1511)
※受付開始は4月23日㈯
詳細は、下記資料をご覧ください。
この機会に、是非ご覧ください。
資料ダウンロードはこちら
『畑』
土づくりをしました。
草が生え、踏み固められていた土が
フカフカになりました。
冬眠していた蛙や昆虫を起こしてしまいましたが、、、
少しおいて、ジャガイモを植えます。
『樹齢約140年の桜』
この桜は明治15年頃に仙台から持ち帰られた5本の苗木の内の一つです。
一つは、倉吉の旧家
一つは、菩提寺である極楽寺
一つは、湯梨浜の旧家
この3本が現存しており、写真は湯梨浜町のものです。
極楽寺には多くの花見客が訪れています。
土が踏み固められてしまい、酸欠状態と聞きました。
枝の下までは根が伸びていますので、土は踏まないように気を付けます。
3本それぞれの美しさが続きますように。
『たけのこ』
今シーズン、初収穫です。
落ち葉が僅かに盛り上がっていました。
落ち葉を避けると、、、発見です。
しかも、隣り合わせ。
シーズン始めにしては、太さもあります。
『文化財建物限定公開解説』
年2回開催されている限定公開の解説をおこないました。
肌寒い風が吹く日でしたが、定員一杯での開催となりました。
「わかり易い解説」を心掛けてはいますが、
想い入れの強さから、
話が、あっち行ったりこっち行ったりしてしまいます。
次回11月も緊張感をもって、より伝わる解説をしたいと思います。
是非、いらして下さい。
『利休梅』
先日、利休梅の苗木を頂きました。
比較的育てやすい木のようです。
来年の春には白い花を咲かせてくれるよう、暫く水やりに励みます。
花言葉は「気品」
楽しみです。
『障子張り』
自宅の障子を張り替えました。
古い障子紙を剥がし、
ここぞとばかりに、桟の掃除もおこないます。
前の前の障子紙や、古い糊と埃を、力を加減し時間を掛けて取っていきます。
21時~24時を3日間。
16枚+書院4枚。
怪獣達に破られないことを願い、新たな美濃紙を張ります。
『建築確認申請』
春から始まる新築工事の建築確認申請をおこないました。
無事「確認済証」を受け取り、いつも以上にホッとしました。
今回の物件は、伝統的建造物郡保存地区内での「文化財の改築」という特殊な内容です。
建築基準法と伝建地区保存条例の両方を満たす必要があります。
準防火地域でもあるため、防火構造にもしなければなりません。
随分と法令集や条例を読みました。
休まず、次の設計に取り掛かります。
『恩師の記念講演』
和田嘉宥先生が、鳥取県文化功労賞を受賞されました。
広い見識に基づいた講演を数年振りのお聞きしました。
学生時代に、今のような姿勢で授業を受けていたら、、、
と、後悔しましたが、
現在テーマとしていた疑問を説くヒントをいただきました。
先生の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
『雪による被害』
大雪のあと、敷地を見てまわると小さな被害が見られます。
このお宅では、「たて樋」が外れていました。
これを放置してしまうと、
屋根下地が腐ったり、雨が漏ったりと被害が拡大していきます。
早く連絡をいただけたため、
破損も少なく、その場で修繕できました。
『野菜収穫』
昨年秋、初めて野菜作りに取り組みました。
慌ただしく過ぎる日常のなかで、
土作りに始まり、苗植え、水やり、草取り、虫との格闘、施肥と、
新たな経験が出来ました。
『初釜 社中』
社中の初釜が終わりました。
皆さんが揃うことは、年に数える程しかありません。
自然と話も弾み、和やかな雰囲気のなか過ごせました。
大寒に相応しく外は雪が降っていました。
雪見障子からは、雪化粧のお庭が眺められました。
先生のご指名で、
薄茶を点てさせていただきました。
「美味しいね」と声をかけていただき、
一年、稽古に励もう。と思えた時間でした。
『東郷神社所蔵棟札』
東郷神社には210枚もの大量の棟札が保管されている事が分かりました。
これは、県内屈指の保管枚数です。
「小畑くん個人でならいいですよ」と調査の許可をいただき、
令和元年12月15日調査を開始しました。
これまでの地域史に記されていない新たな史実も多くあることが分かり、
公開をご提案していましたが、叶っていませんでした。
令和3年12月23日、煩雑に重ねられていた棟札を並べ替えました。
17時から作業を開始し、作業終了時には日付が変わっていました。
これによって、貴重さを共有していただけました。
神社総代さんにもお伝えし、ようやく公表することとなりました。
私の9代前の先祖が大工棟梁として記されているものにも出会えました。
『初釜』
お招きいただいた初釜に行きました。
連客は、先生方ばかりとあって緊張しましたが、
何事も勉強と思い参加させていただきました。
御亭主の心尽しのなかで、贅沢な時間を過ごします。
文化を学ぶ、貴重な機会でした。
『棟札に書かれた文字』
『天御中主神』
→神の名。古事記では天地開闢の時に最初に現れた神であるとされている。(Wikipedia)
『永昌守処』
→「永く栄え、守りとどまる」ことを願ったと理解しています。
当時の当主が、子孫を想い、願ったのだと考えます。
『明治廿六年』
→この年は、県内に甚大な被害をもたらした大雨が降った年です。
大雨は10月なので、大雨の被害がこの工事をさせた訳ではない事が分かりました。
『辛巳三月吉日』
→明治26年の干支は「癸巳」ですが、「辛巳」と書かれています。
「辛巳」は明治14年です。
当家には古い家相図も残っていました。
この家相図の作成が、明治14年「辛巳」三月です。
このことから、棟札に書かれた「辛巳三月吉日」は家相図を作成した明治14年を指したと考えます。
計画から12年を経たことが想像できます。
『大工棟梁 八橋郡金市村 吉元善十郎』
→金市村は、直線距離で4.6km離れた集落です。
当時の普請状況から考えると、随分遠くから棟梁を迎えたことが分かります。
名の馳せた大工棟梁であったと考えますが、未だに、全く詳細が分かっていません。
『木挽棟梁 同郡杉地村 中田清四郎』
→杉地村は、隣の集落です。
後に分かることですが、
一般的に「棟札の表面に職人の氏名が書かれ、裏面に施主の氏名が書かれる」ことはありません。
また、施主については、当主の名前のみ書かれる事が一般的です。
しかし、この棟札には、各代の夫妻名が書かれ、妻の出身までもが記されています。
このことから想像するのは、
・当時の当主は「自分が一番」といったタイプではなかった。
・職人へ気を配り普請事業を遂行した。
・奥さんを尊重していた
宝探しの先に、先祖が後世に繋ぎたかった想いを見たような気がします。
『棟札』
蔵の中を一通り整頓すると、
一枚の「大きな板」とその陰に「木札」が見えました。
「大きな板」は、建物の図が書かれた『図板』
そして、その陰に見えた「木札」が『棟札』でした。
薄暗い蔵の中、
3年にも及んだ宝探しの成果品を、
震える両手で初めて抱き抱えると、
つい「あったぁ、、、」と息が漏れました。
天御中主神 本家建築永昌守処
明治廿六年
大工棟梁 吉元善十郎
木挽棟梁 中田清四郎
裏面には、私の5代前の夫婦、4代前の夫婦、そして曾祖父の名がありました。
この『棟札』を捨てずに保管してくれた先祖に感謝します。
これを蔵にしまった先祖は、見付けて欲しかったのだと思えます。
口伝は途切れていました。
今では、直ぐに見つからなくて良かったとさえ思います。
先祖がこの経験を通して、学ばせてくれたのだと。
遠回りをした結果、得難い経験が出来ました。
現在この『棟札』は居間に飾られ、代を経た家族を見守っています。
『わからない』
教えていただいた通り、
早速、自宅の屋根裏へ潜り、梁を伝って上へ上へよじ登り、棟木に辿り着きました。
しかし、棟札らしきものはありません。
建物の端から端へ、梁を伝って行ったり来たりしましたが、見付けられませんでした。
一方、神棚には大量の祈祷札が保管されていました。
一枚一枚確認しましたが、この中にも棟札はありませんでした。
それからは、思いつくままに探しました。
仏壇の下は?床の間の天井裏は?床の間の床下は?大黒柱の床下は?オモテ座敷の天井裏?床下?神棚の裏?上?
梁に直接書かれていた事例を知り、
梁の上に堆積していたホコリを全て掃除しながら探しましたがそれでも見付けられませんでした。
始めてから3年が経過。
疑問は解けませんでしたが、
この宝探しをしながら、
当時の仕事の壮大さと精密さに惚れ込んでいきました。
「わからない」という答えもあるのでは?
この頃には、そう思い始めていました。
再度、和田先生を訪ね、報告をしたところ、
「蔵は見た?」とヒントを頂きました。
『宝探し』
夏休みの課題提出後、分からなかった答えが気になり続けていました。
授業のなかで「棟札」という存在を知ります。
「トウフダ?」「トウサツ?」「ムネフダ?」
読み方すら分からなかった私は、
建築史の和田嘉宥先生に「自宅の事が知りたいです。棟札はどこにありますか?」とお聞きし、以下のように教えて頂きました。
「「むなふだ」と読み、屋根裏で最も高いところにある棟木、若しくはそれを受ける棟束に釘で打ち付けられている事が多い。」
「神棚にしまわれている場合もある。」
自宅を舞台とした、宝探しの始まりでした。
『知欲との出会い』
学生時代、1年生の夏休み
課題「建物を1つレポートしなさい」
安易に自宅を選択した私は、初めて我が家を「調査」しました。
調査といっても天井裏に首を突っ込み、そこからカメラのシャッターをきる程度のこと。
その時はじめて、住み続けた我が家の隠れた梁組を目にしました。
幾重にも組み上げられた煤けた太い梁は、ライトに照らされ黒く光り輝いて見えました。
威圧感よりも、美しさ。
ホコリ臭さや夏の暑さも気にならず、
硬直したまま心拍があがる自分に驚きながらも、
目を見開き視線を動かしていました。
「いつ?誰が?どうやって?」
この疑問を抱いたことによって、
私の今後が決まったように思い出します。
初めまして。小畑公寛と申します。
ホームページを開設しました。
よろしくお願いいたします。